労働運動の大義とは何か:全国労働者討論集会と労働情報誌創刊にあたって

いま根本的に問われているのは、まず第一に、労働組合の存在意義とは何なのかということだと思う。労働組合の価植基準とは何なのか、あるいは、いわゆる「ゼニカネを越える思想」が問われているのではないかと言ってもいい。われわれが反合闘争、政治闘争を口にする場合、ただ単に「階級的に進めてゆく」というのでなく.労働組合の価値、三塁塚にならっていえば、”労働運動の大義“ともいうべきものはいったい何だと言い切れるのか、ということだ。結局のところ、そこがあいまいだと敗北するし、またそこのあいまいさが個別闘争の域をなかなか抜け出ない原因だろう。

第二に、社会主義をめざす労働運動、という言い方をこれまでしてきたが、これはつまり、労働者階級が世の中をどのようにひっくり返すのかという手だてを考えねばならない、ということだ。そのときぜひ議論の対象としてほしいのは、社会主義の中味、あるいは必要性ということと共に、何よりも、社会主義に至る我々の原点は何であるのか、ということだ。現状規定からすれば.今の政治闘争、反合闘争が個別の枠を越え、地域・全国へと波及する、そして正面から権力とぶつかっている状況のなかで、職場のオッチャン、オバチャンから「独占資本を倒すんだ」という言葉がでてきている。我々がそれに対してどう応えてゆくのか。「それは革命だ」と言えば済むのかどうか。それはともかく、今までの「左翼の」運動というよりも、闘争が究極的に行きつくところとして、結局これは、世の中ひっくり返さんと勝たんのだ、政治闘争、反合闘争も勝てんのだ、国家独占資本が仕掛け人だから、そこまで攻めのぼるんだというエネルギーこそが、われわれが議論する場合の原点だと思う。

ではそれをどのような回路で実現するかという場合、”労働組合主義=サンジカリズム“というものがある。たとえば労働組合がどれほどオールマイティになって、あらゆる労働者の組織化に取組み、政治闘争もするし三里塚で闘いをするとしても、やはり労働組合の限界があることははっきりしているだろう。そのことについて無自覚なままで、労働組合の枠内で堂々めぐりとしていると、逆に労働組合という枠に縛られて闘争の発展が疎外される。だから、労働組合主義という、はっきり言えばわれわれの現状に自覚をもつべきだということだ。なぜかといえば、よその側からは、われわれの運動が労働組合主義だとレッテルを貼られていることもあり、そういう段階だと決めつけられれば、そういう気がしないわけでもないわけだ。けれど、少なくとも労働組合主義かどうかが自分でわからないのが一番重病だから、次なるわれわれの発展は何か、これを(幹部だけでなく)全体で討論することが必要なのだといえる。

いいかえれば、われわれの現在の闘争の必然的発展としての我々の階級形成―そうした文脈の上で社会主義をめざす労働運動ということを明確にしたい。その観点で、自主生産【組合管理】の問題ももう一度議論し直す必要があろう。たとえば、生活保護寄こせという要求がそれほど「革命的」ではないかもしれないが、その要求が改良的な要求として、出されるのか、あるいは過渡的な要求として出されるのかで、ずいぶん違ってくるのではないか。同じ要求を出すのであっても、それで事足れりという運動をしているのであれば、我々はそれを改良主義だと批判しなくてはならない。しかしながら、これが独占資本へ攻めのぼる過渡的な要求・政策だというのであれば、同じ要求でも肯定されることにもなる。だから、その点について、要求が革命的であるかないかという議論に終始しても仕方ないが、結局のところはどうなのかを、自主生産の場合についてもその場その場で総合的に批判して議論すべきではないかということだ。

同時に、世の中をひっくり返すという問題を出してくると、全国の闘争拠点を結ぶということだけでなしに、もっと大規模なものを考えねばならない。たとえば自術隊をどうするのか?、といった問題も出てくるだろう。しかし.今の議論の段階では、それよりもゼネストの問題について考えねばならないだろう。というのは、世の中をひっくり返すという場合、政治ゼネストは必要なしと言う人はいないと思うが、あればいいというだけでもない。絶対必要となるのではないか。
そうすると、政治闘争の不十分さをどうするかという議論にとどまっていては話にならないわけで、文字通り全国的な政治課題.政治ゼネストへと発展する、いわば決戦戦術がなければ、世の中をひっくり返すことなど叫んでいるだけでは無意味なのではないか。何も今すぐ政治ゼネストをやろうと言っているのではない。しかし、単に政治ゼネストをやるのも悪くないと夢想するのでなく、今までやってきたわれわれの運動に、一方ではその限界も感じるが、逆にまたそれに自負も持ちながら、次なる発展段階の道筋を考えてゆくという意味で、政治ゼネストという問題も考えてゆきたいと思う。

さて、この大阪集会の基本である全国結集を、何故我々はかちとるのか、という問いに触れたい。これまで言ったなかで既に理解されることでもあるが、この間の全国闘争というのは、全国的裸題というのがあって、それを取りくむことが全国闘争だと言われてきた。それはとくに政治闘争の面で必要なことだと思うが、しかしながら一方で地域共闘を全国化するという必要性が重要ではないか。我々の悪しき分業意識からすると、これまでは「政治闘争は全国闘争で、反合闘争は地域共闘」といった図式が一般的だった。しかしこうした分業は止めて、たとえば争議について、全国の争議の一大共同行動、また場合によっては「ある争議組合に対する全国一斉の支援行動」そういう具合に全国闘争のなかに明確に労働争議を位置づける必要があるのではないか。同時に地域共闘についても、以前は全国各地の自衛隊の駐屯基地にデモをかけたりしたが、最近はどうもそういう闘いが弱い。つまり、地域における政治闘争―それが小さな集会やデモから始まるのでもいいから、やってゆく必要があるのではないか。

そうした意味で、ここで再度、地域と全国を結ぶという必要性があると思う。そのとき、総評なり社会党なりにそういう闘争がないかといえば、あることはあるといえる。そういう闘争の中味に我々が手をかけて、本質的なものに迫っていく必要があるのではないか。「社会党・総評をどうするかという議論は消耗だ」というのでなしに、これについても緊急に考えたい。各地域・地方においては、県評とか地区労といった闘争機関の機能がおそろしく低下しているが、やはり我々が、大胆に地区単位の闘争機関の強化をはかる必要があるのではないか。また、そうした理想的な共同闘争の形成のなかで、いかにIMF-JCと正面対決してゆくのかという課題が、今日の職場・地域の代表が集うこともふくめて、立てられるべきではないかとも考えている。